三角点名  両児山 (フタゴヤマ) 山名  両児山
所在地  玉野市八浜町字八浜
コード  TR45133675501 標高  36.28m (最高点は53m)
 埋標日   平成12年7月26日
地上部  12cm 方位  正常 
概  況  県道45号線沿いの八浜中学校から西に入り、児島湖流域下水道浄化センターの手前を南に登る。南北両峰の中間点に両児山公園ガあり、三角点は公園の東端に設定されている。平成12年の設置らしく、標柱はコンクリート桝の中にきっちりと収まっている。
 三角点から東の【金甲山】を展望した後、池田藩主代々の崇敬神社であった【八幡宮】に参拝し、家内安全を祈願する。鎮守の森は、県から郷土記念物「両児山の樹林」として指定されており、ウバメガシは勿論、ビャクシン、アベマキのほかクスドイゲなども生育している。
 南峰(53m)には八浜城址の標石が立っており、木立の間から干拓地(旧児島湾)を展望し、その昔を偲ぶことができる。(H20.02.26)



三角点は公園の東端

三角点付近から東を望む

北にある八幡宮の宮獅子(備前焼

南峰にある八浜城址の標石

玉野光南高校グラウンドから見た両児山(中央は【金甲山】)


 ルート図 クリックで大
       八浜城・両児山城 縄張り図 クリックで大➡
 
  <2019.06.06>
 
山陽新聞カルチャ―講座「岡山の中世城館」で「両児山城」が取り上げられたことから踏査することに。駐車場に車を停め、先ずは三角点に向かい、雑草を整理して三角点標柱に再会の挨拶をする。
  改めて気を引き締めて南に延びる舗装道を登り、山頂の墓地入口付近で南峰の最高点を探すもそれらしき標識は見つからず、赤いリボンが付いている玉野市の境界柱を最高点とみなして記念撮影。続いて本日の主目的である城郭跡の踏査、先ずは堀切・横堀をカメラに収めた後、南斜面を下って出丸跡等を探すも見つからず、諦めて主郭跡まで戻り、横堀の散策道を北に向かう。
 ベンチで小休止した後、【八幡宮】への石段を登り、宮獅子(備前焼狛犬)さんに来意を告げて東の雑木林に入る。すると、南峰ではカメラに明確には捉えられなかった畝状竪堀がすぐに見つかり、興奮してシャッターを切る。竪堀は更に東に続ているようだが時間の関係もあって参道に戻り、八幡宮・快神社・御崎神社・天満宮等に参拝し、5対の狛犬さんにも再会の挨拶をして駐車場に戻る。

 <2019.11.08>
 三角点標石の反対側(西側)の養貝偉励碑の南に歌碑が建っており、作者等は不明だがとりあえずカメラに収め、詳細は帰宅してから調査することにする。

三角点周辺には雑草が…
   
三角点周辺を整理する

三角点の反対側(西側)にある歌碑
   
歌碑 *クリックで大

南峰の山頂にある墓地
 
南峰の最高点 *クリックで大

南峰にある八浜城址の標石
   
公園になっている南城主郭跡

南峰南斜面の横堀
 
北峰東斜面の畝状竪堀群
 <八浜城址の碑文(石碑の裏面)
   八浜城・両児山城 
 児島地方は戦国時代の末頃 織田・毛利両軍の衝突地点であった 天正9年春(1581)毛利の大群が麦飯山城を中心に陣を張った 時に岡山城では宇喜多基家が城主直家の死を秘し 養子として一切の采配を振っていたが 自ら親衛5百を率いて当城に入り毛利軍と対陣した 8月21日大崎の柳畑から八幡社付近で合戦し 城主與太郎基家は討死したが 有名な七本槍の働きによって さすがの毛利の大群も引き上げ 翌10年豊臣・毛利の決戦 高松城水攻めへの前哨戦となった因縁の城跡である
        昭和41年12月建之                  鶴来    藤原 茂 書

 <歌碑>
 「昔みし 松は老木になりにけり われ歳へたる ほども知られて」 (西行法師の作)
  歌碑が建てられた詳細な経緯は不明であるが、歌の出典である「山家集」によれば、詞書きに「西国へ修行して罷りける折、児島と申所に、八幡のいはゝれ給ひたりけるに籠りたりけり。年経て又その社をみけるに、松どもの古木になりたるけるを見て(詠む)」 とあり、近くに八幡宮もあることから、この地で詠まれたものとして、歌碑が建てられたようだ。(昭和39:1964年9月23日建立)