<龍駕駐蹕記念碑> 出典:「上道郡誌」 上道郡教育会 編    昭和48.5.16発行

明治43年秋陸軍特別大演習を我吉備の里に於て行はるゝに当り、明治天皇は御統裁として行幸あらせられ、大本営を岡山後楽園内に置かれ、演習地に行幸あらせられたり。演習第3日(1115日)東軍は司令部を藤井に置き、岡山西大寺道上横割附近より亀井頭、土田を経て四御神西北方高地に亘りて陣地を占領し以て機の熟するを待ち、西軍は司令部を原尾島に置き、旭川の左岸に展開して東軍を追撃せんとす。時に東軍は有力なる部隊の来着に依り俄然攻勢に転じ笠井山、亀井頭にある両軍陣地より砲撃起こり、続いて前線の歩兵戦闘を開始し砲撃銃声殷々轟々加ふるに機関銃の響きは○○として耳を劈くが如く、午前9時東神下、長岡の線にて衝突混戦状況となり演習中止となる。此日明治天皇は古都村大字宍甘山王山の高地に行幸あらせられ、親しく両軍を御統裁あらせられたり。依りて其付近数百町歩の地を併て公園となし、桜楓樹を植ゑ小亭を造り御野立あらせられたる御跡には石碑を建て、之を後世に伝ふることゝなりぬ。苟も一たび去って此聖蹟に過ぎるあらば、誰か天王の御偉徳を膽仰熱烈の至誠を起さざるものあらんや況や。又当時に在りて畏くも龍顔に咫尺し艅光を拝せし臣民に於てをや。(碑文略)

 

<宍甘御野立所> 出典:「岡山県上道郡古都村史」 古都村史刊行会 編  昭和33.5.30発行

明治天皇行幸

 明治43年吉備の野に陸軍特別大演習挙行の際に、軍統盤のため天皇は本県に行幸せられた。大本営を岡山後楽園に定められ、1115日(演習第3日)午前720分大本営を御出門、仝740分岡山駅御発車、仝52分西大寺駅御着演習統監地である上道郡古都村大字宍甘字山王山の御野立所に乗馬にて行幸せられ、親しく大演習実況を御覧になられた。

 

今上天皇行幸

 昭和5年秋11月岡山市を中心として特別大演習を吉備の野にて行われ、天皇には親しく軍を統監せられた。1117日観兵式及賜饌の儀にて陸軍大演習は終了した。翌18日午後130分行在所御出門、愛馬初緑に鞭うち、茶色中折帽子、鼠色背広服の軽装で奈良侍従武官長、西園寺御用掛、蓮沼侍従武官、木下、野口両侍従、高木行幸主務官、薄田警察部長その他一行20名、香取知事先導にて鶴見橋々畔より北上、高島村大字祇園大樋より総社宮境内に入り、高島神社の社前を東へ大字湯迫より南下、国府市場、仝出村を通過し、財田村大字土田より古都村大字宿を経て、午後235分、本村大字宍甘山王山の高地に着御せられた。明治43年の大演習当時の御野立所として明治天皇が親しく統監せられた龍駕駐蹕の記念碑に対し、21年前を追憶せられ遠く広がる上道の野を御展望、香坂知事の附近一帯の史跡の説明を興深く聴かせられた。午後3時御出発財田村長岡、仝長利より百間川堤防左岸を幡多村に、更に国道により原尾島を経て午後350分後楽園に帰還せられた。 
 
御野立所の規模

 上道郡では明治441月工を起こし、御遺跡に記念碑を建て、桜、楓、松等を植え、小亭を設け、公園風の施設をなし、年々之れに維持を加えていたが大正154月、郡制廃止と共に、管理を岡山県に移し、爾来県において維持経営せられた。

 境内には明治天皇御統監の際天皇旗を立てられた松、大正天皇銀婚式記念の松、皇太子御成婚記念樹、今上天皇御微行記念樹等がある。 (碑文略)

 

 昭和11112日文部省告示第349号で史跡名勝天然記念物保存法第1条により、明治天皇宍甘御野立所として史跡に編入せられた。

 

 昭和12125日明治天皇御野立所保存施設として標柱及制札並に境界石を建設した。

 一、標柱 材料は上等花崗岩、高さ2.375米、0.33米角。

   表面 明治天皇宍甘御野立所

   側面 昭和12101日建設
   側面 史跡名勝天然記念物保存法によ依り史跡として昭和12年11月文部大臣指定

 二、制札 材料は上等肥松材、高さ3米、

制札板の厚さ4.5糎、高さ80糎 幅120糎   

制札の記載文

      明治43年陸軍特別大演習御統裁の為岡山県下行幸の際1115日御野立所となりたる処にしてその地点に明治451月建設に係る龍駕駐蹕記念碑と題する碑あり。

 

*昭和23612日明治天皇の史跡指定解除の旨岡山県知事より通達があった。