三角点名  ー 山名  城山 (物理城跡)
所在地  岡山市東区瀬戸町坂根字城ヶ谷
コード  TR −       標高  170m
概 況  【C坂根】の探査を終えて東に進む。尾根道には赤いテープがついているが倒木等が多く、このままでは例会山行には少し無理かな? 急坂を登って緩やかな山道を東進するとやがて2枚目の「茸山につき入山禁止」の看板。その奥(南)に石柱が見え、近づいてよく見ると「物理城跡」の刻字あり、周りを整理してカメラに収める。(【C坂根】から約20分)
 山頂と云えども木立が高く展望は全く利かない。ならばと南の斜面に回って50mほど降りると、木立が切れ、東に「生活環境保全林」の「展望の丘」、南に「肩脊城跡」等を見渡すことができる。腰を下し、城主になった気分で暫く展望を楽しむ。
 そんな時、突然、携帯電話が鳴り、「午後3時に珍客あり」とのこと、東の「瀬戸町森林公園」への縦走を中断して往路を引き返す。(市道まで約25分)(H27.02.11)


*物理郷(モトロイゴウ)の由来等  (平成18.12.5刊 「瀬戸町歴史事典」要旨) 
 部民の「水取部(モヒトリベ)」が「母止理部(モトリベ」)になり、更に転訛して「物理(モトロイ)」となり、その居住地が地名になったものである。天平神護2年(766)の「続記」には「物理郷」、また「和名抄」(931〜937)でも「物理郷」であるが、建仁3年(1203)の「作善集裏文書」では「物理保」に変わっている。区域は、森末、寺地、光明谷、瀬戸、下の各村が比定されている。江尻と下との境に「戻り坂」の地名があるが、これは「もどろいさか」の転訛であると思われる。また、沖村は肩脊郷に属し、坂根は物理郷であったという。

*物理城  (昭和60.1.12刊 「瀬戸町誌」要旨)
 物理城主は、「古備前秘録」によると、物理貞茂或は物理民部丞と云い、貞茂は石橋和義(尾張佐衛門))に、また民部丞は浦上氏に亡ぼされたという。「和気絹」、「備前軍旗」などには、文明の頃(1469〜1486)には長船右京、或は浦上氏の臣・明石右京がいたともしており、室町・戦国時代には、この城は可なり重要な城であったことが想像される。物理貞茂・物理民部丞らは、坂根・瀬戸・下に給田を持っていた地頭で、その館は寺地の中世集落址の中にあったと思われる。
 (「瀬戸町歴史事典」(前出)では「物理城」を「モトロイ城」と読ませているが、「改修赤磐郡誌」(昭和15.12.25刊)では「物理城」に「モドロイ」のルビが付られている。)



【C坂根】から東に向かう

倒木等多し

フラットな山道を東に進む

2枚目の「入山禁止」の看板
  
平成2年3月に建てられた標柱  *クリックで大
(裏面に「城主 長船右京・物理貞茂」の記載あり)
物理城跡標柱の南50m付近から東の展望 *
(切り開きは生活環境保全林の「展望の丘」)
物理城跡標柱の南50m付近から南の展望 *
(手前中央の三角形の山は肩脊城跡)