三角点名  ー 山名  鍛冶山
所在地  岡山市北区足守
コード  TR −       標高  171m
概 況  <H27.01.12>
 今回は高松城水攻めの際、対峙した宮地山城と鍛冶山城の2座の探訪。国道429沿いの冠山城跡(下足守)の西から両座の位置関係を確認した後、先ずは東の鍛冶山に向かう。
 北の大井地区から南下して才ノ溺池から西の舗装道に取り付く。落ち葉で滑りやすい舗装道を800mほど登るとドコモ足守基地局の電波塔。空地に車を停めて約20m上方の北峰にある2基の電波塔(デジタルツーカーとNHK・RSK・OHKの3社共同アンテナ)に挨拶して停車場所に戻る。
 いよいよ鍛冶山城跡の探査、荒れた竹藪の中を南に進み、堀切を超えて急坂を登りきると櫓台跡に到着。そこにはコンクリ造の井戸跡のような大きな穴(内径3m、深さ2.1m)がある。何時ごろ、何のために造られたのか、後で調べることにして西回りに南に下っていくと石垣の上場が見える。横に回ってよく見ると石の大きさが北端は大きく、南はやや小さい。これも強度に関係あるのか?そんなことを考えながら荒れた竹藪の中を南に2段ほど降りると平地に小さな祠がある。どうやらこれが水神様のようだ。周りを整理して記念撮影。(取り付き口から約30分)
 城跡は更に南に延びているが、本日は【宮地山】の探査もあることから、出丸の探査を諦めて往路を引き返す。
 櫓台跡まで戻り、コンクリ造の大穴の周辺を整理し、写真を撮ってから停車場所まで戻る。小休止した後、今後の来訪者のことを考え約20分かけて取り付き口周辺を整理し、リボンを付けて次の【宮地山】に向かう。
 *宮地山探査後、地元の歴史研究家から聞いた話によると、コンクリート造の大きな穴は、戦時中トーチカ(防空監視哨聴音壕)として使われていたとのこと。

 <鍛冶山城> 「備中誌」(明治36.4.15初版)要旨
 開基は建武年間(1334〜1336)大森彦七の一族大森治郎左衛門と云われており、天正年間(1573〜1592)宇喜多秀家の家臣の信原土佐守が城主となる。
 天正10年(1582)3月、秀吉が備中国に入り、この城をして宮地山城を攻め落とす。
 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の役で敗北して信原家も亡びた。当時、この城には妻子がいたが、関ヶ原の敗北を聞いて備前に落ち延びた。一説には、子孫は「延原」に改めて、現在、岡山に住むという。



冠山城址の西から見た【宮地山】(左)、【鍛冶山】(右)

才ノ溺池の西から取り付く

落ち葉の舗装道を登る

車道終点:北峰に建つ電波塔(2基)

城跡への取り付き口(周辺整理後)

荒れた竹藪・堀切の中を進む

櫓台跡にあるトーチカ跡(内径3m、深さ2.1m)

櫓台南西の石垣(北端5m)
   
3段目にある祠(周辺整理後)
 
櫓台南西の石垣(南端から20m)
 


 <H28.02.02>
 地元の歴史研究グループ【備中足守竹取物語】から、3月に行われるイベントの下見に誘われて訪れる。
 午前中は、北の電波塔前の広場に車を停めて南の本丸跡までのルートの点検整備。各々斧と鋸をもって出発するも、入り口付近から枯れた竹や小枝に道を塞がれて早速作業を開始。前回訪れた時も苦労したが、今回もトーチカ跡や西の石垣周辺の整理に相当な時間を費やす。それでも約2時間かけて本丸跡まで整理して一旦昼食に戻る。
 午後からは南ルートの点検整備。洪庵トンネル北の県道脇空地に車を停めて鉄塔巡視路に取り付く。中腹の鉄塔からはヤブコギ同然の中を整理しながら約3時間かけて本丸跡に辿りつく。水神様のある水場跡を整理して引き返す途中、出丸跡西方で展望所を整備する。作業を終え、遥か南西の山並みから立ち上がる水島工業地帯の煙や南の【常山】の山容を見て、達成感に浸りながら駐車場所に戻る


 <H28.03.13>
 
備中足守竹取物語】が主催する「鍛冶山城跡から陣屋町『足守』を望む」イベントに参加。新聞を見て応募された方など35名と一緒に才の嵶池から電波塔への舗装道を登って行き、先ずは北峰:二の丸跡から探訪開始。ポイントでは地元の歴史研究グループから解説があり、参加者も当時に想いを馳せながら城跡を巡る。竹藪の中を南に向かい、出丸跡から東南〜西に拡がる展望を満喫した後、ロープが張られた急坂を慎重に下る。鉄塔から再度「陣屋町足守」を確認し、鉄塔巡視路を下って足守公民館に戻る。昼食時に交わされた参加者の感謝の言葉と笑顔に感動、参加して本当に良かった!(約2時間) 
 
整備した展望所から南西の展望