三角点名  唐人山(トウジンヤマ) 山名  唐人山 (「カラヒトヤマ」とも云う)
所在地  吉備中央町(賀陽)吉川字桜ヶ乢
コード  TR 45233155901  標高  384.87m
埋 標    昭和52年 6月 9日
地上部  10cm 方位  正常
概 況  黒山】の探査を終えて広域農道を約6.7q西進すると5差路、ここからは県道307を南下する。約800m下るとヘヤピンカーブがあり、その東奥の空地に車を停める。
 鉄塔31の巡視路に取り付き、落ち葉で滑りやすい急坂を登って行く。ポイントには標識が建っており間違う心配はない。凡そ10分で鉄塔31の手前に着き、巡視路の西の林の中を見ると白い三角点標示杭が見える。近付いて周辺を整理して記念撮影。(往路:約10分)
 三角点からは展望が全く利かず、ならばと南約10mにある鉄塔まで出てみるがやはりダメ。諦めて往路を引き返す。(復路:7分)
 駐車場所まで戻り、県道307を約2q南下すると唐人山集落の入口、休息中の老婆に来意を告げると「唐人の古いお墓がある」とのこと、早速訪れて参拝する。お墓にはシキミが供えられており、先人を敬う心に大いに感動する。暫らく墓石を観察した後、北に見える唐人山の山容をカメラに収め、老婆に御礼を云って岡山に向かう。(H27.10.19)

 <唐人山> 出典:「上房郡誌」(要約) 大正元年10月 上房郡教育  
 文禄年間(1592〜96)、豊臣秀吉が征韓の役の際、韓人(唐人・宗吉)を日本に連れて帰り、足守の木下家に預けた。慶長元年(1596)代官難波某が吉川村に来るとき、同伴して来た「唐人・宗吉」を御林山の番人としたことから、土地の人は「唐人山」と呼ぶようになった。後年、木下家の家臣石原小左衛門が吉川村に来て(墳墓の荒廃しているの見かねて)碑を建てた。碑は、礎石をたたみ、台石2個を重ね、その上に方柱塔を置き、表:唐人宗吉墓、向かって右:實高麗國人、向かって左:風化して文字不明、裏:弘化4年(1848)丁未3月祀 と記されている。なお、傍らに豊島石及び糖状石灰石で造った高さ2尺余の龕塔が7個ある。当地は山間へき地であるが子孫が繁栄して今に至っている。
 参考
@唐人宗吉の墓石の左隣には「元禄元年11月7日」と刻まれた墓石(一部損壊)がある。(H27.10.19 確認)
A田中 一著「吉川誌」(昭和31.4.1刊)によると、大正10年頃までは子孫が栄えていたが、その後、次々に死亡して絶家となった。しかし、他から入村する人がいて現在の唐人山部落をなしている。(2010国調による唐人山集落の世帯数 7世帯、人口 11人(男7、女4))



広域農道を西進する *クリックで大
5差路を左(県道307)にとる *クリックで大

鉄塔巡視路に取り付く  *クリックで大

巡視路を登って行く
ポイントには標識がある *クリックで大

木立ちの中をひたすら登る

トンネル(木立ち)の奥に鉄塔が見える
三角点は巡視路から西へ約5m *クリックで大

方位等は正常

県道307から見た唐人山集落
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唐人宗吉の墓  *クリックで大

唐人山集落から見た「唐人山」の山容(中央奥の鉄塔が山頂)