(杠城)の推移  
出典:「史誌と伝説」(修補)    上市老人クラブ寿康会 H
2.4.25発行

 

西 暦

和 暦

出     来     事

1180

治承  4

新見四郎兵衛尉祐信、源三位頼正挙兵の時、この城を築いて応戦する。

1186

文治  2

三浦重行(楪 六郎)矢谷城(後に「杠城」と呼ぶ)に住む。

1219

承久  元

楪實證備中守、鎌倉八幡宮に供奉する。

1333

元弘  3

新見九郎貞直、後醍醐天皇の船上山挙兵に従軍する。

1472

文明  4

15代楪惟久、松山城主上野広長に攻められて落城。広長の三男上野維行に楪城番を命ずる。

1501

文亀  元

新見蔵人国経、楪城を攻め、上野維行を松山に放逐する。

1511

永正  8

秋葉備中守利元、楪城を落とす。

1518

永正 15

新見国経、秋葉氏を退散さす。

1533

天文  2

猿掛城主為資、大松山、小松山を落とし、楪城の上野左京亮行経も討死して上野氏滅亡。楪城には庄一族の楢崎久之丞時信を城番にする。

1567

永禄 10

毛利軍の攻撃で新見貞経(尼子方)新見庄を敗走する。

1571

元亀  2

毛利軍、楢崎助四郎時忠(楪城)を攻略、三村元範を楪城主に配する。

元範、楪城の大改修、支城の整備を行う。

1575

天正  3

毛利軍、楪城を攻略。三村元範、高尾石指にて戦死。吉川元春の家来今田経高、楪城主在番となる。

1590

天正 18

豊臣秀吉、楪 忠久、守久父子を楪城主に任ずる。

1600

慶長  5

守久と嫡子貞久、関ヶ原の戦に石田三成に組みして戦死。徳川家康の戦後処理により楪城主国久(守久の三男)は城を脱出し、楪城は廃城となる。