岡山市郡の高山(215m)山頂にあった中世の山城。建武年間(1334〜1338)飽浦三郎左衛門信胤がこの城を築いたという。信胤は、源平合戦のとき、藤戸合戦で戦功があった佐々木三郎盛綱の次男・加地太郎兵衛信実の子孫と云われる。信胤は、はじめ同族加地、田井氏らと共に北朝方に味方して活躍したが、後に南朝方についた。信胤は、この城を本拠に活躍し、勢力は小豆島まで及んだという。だが北朝方が次第に優勢になり、この城にとどまることが出来ず、小豆島の星ヶ城に逃げ、そこで足利尊氏軍と戦って破れ、討ち死にしたと伝えられる。その後、天文年間(1532〜1555)信胤の後裔飽浦美濃守が在城し、その長子飽浦美作守もこの城を守った。城跡は、高山の頂上で南北の2峰に分かれた地形をうまく利用して、南から北へ2峰一連の城を造った。12の段形を数える大規模なものである。 |