三角点名 | ー | 山名 | 奴久谷の大滝 | ||
所在地 | 和気町吉田字奴久谷 | ||||
コード | TR ー | 標高 | 約200m | ||
概 況 | 「岡山県名勝誌」(大正4.10刊)に紹介されている名瀑。田植え時期でもあり水量もあると思い訪ねてみる。(結果的には滝からは水は流れていませんでした…事前調査の不足) 奴久谷集落の駐車場から「津田永忠の墓⇒」の案内標識に従って坂道を登って行き、解説板を読んだ後、丁寧に手を合わせる。墓碑は7基並んでいるが永忠の墓碑は特に大きいものではなく、その人柄が偲ばれる。 一旦集落道に戻り、100m程西進して地元の方に挨拶して谷筋を北に向かう。道端の「大滝の由来」を読み、期待感に胸躍らせて100m程北進するとイノシシ・シカ除けの第1ゲート、丁寧に開閉して奥に向かう。凡そ300m程で第2のゲート、標識に従って登って行くと道は次第に荒れてくる。足元に注意しながら200m程登ると大滝への分岐標識、「滝は近いぞ!」と西進して谷筋に着く。大滝への小さな指導標に従って20mほど登ると待望の滝の下手に出る。(駐車場から約20分) 滝は上段(約20m)・下段(約15m)の2層からなっていて、その高さに圧倒される…が滝の上端からは水は流れて(落ちて)おらずザンネーン!そういえば、集落の田圃は、畑や休耕田になっていたことを思い出す。時代の流れとはいえ、先人の偉業が活かされていないことを残念に思う一方、ならば水源となる池を訪ねてみることを思い立つ。 谷筋に戻って、赤いテープを頼りに黙々と遡る。谷筋を東や西に渡りながら高度を上げていくとやがて石垣が積まれた崖上に出る。約5m四方がフラットになっており、小屋跡か?小休止して踏み跡を探すと西斜面に赤いテープが見える。急坂を木に掴まりながら登って行くとやがて尾根筋に至り、小ヤブコギして西に向かうと池に出合う。どうやら下の池のようだ。堤防の西端に回って小休止。(大滝から約70分) 下の池からは山道(管理道?)はしっかりしており、凡そ10分で上の池に着く。両池とも水量は多く、これなら相当な干ばつでも心配はなさそう。それにしても、こんな山奥にこれだけの規模の溜池を造るとは!その使命感と実行力には大いに頭が下がる。 小休止した後、下の池まで戻り、ここからは堤防直下に設けられた用水路に沿って東南に下っていく。あわよくば滝の上端に出るのではとの淡い期待もあったが、水路はやがて急な谷筋に注ぐこととなる。止む無く水路と別れて(滝の上端に出ることを諦めて)山道を下って行く。急坂を木に掴まりながら15分ほど頑張るとやがて谷筋、そして第2のゲートに出る。シッカリとゲート締めて更に下っていくと、第1ゲートの下手では初夏の草花が「お疲れさん!」と労ってくれた。(上の池から約50分) 駐車場まで戻り、ザックを下して改めて津田永忠の屋敷跡を訪ねて大滝を展望する。滝下から見た光景とは全く異なり、これまた感動!本当に充実した一日であった。(H27.06.17) |
先ずは津田永忠の墓所に参拝 |
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7基の墓碑・土墳が並んでいる |
墓所にある解説板 *クリックで大 |
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民家の脇を奥(北)に向かう |
道端にある解説板 *クリックで大 | |
第1のゲート |
第2のゲート |
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大滝への分岐 |
谷筋にある大滝への標識 *クリックで大 | |
谷筋に積まれた石垣 |
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西斜面に付けられた踏み跡 |
急斜面にはコシダが群生 |
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下の池 |
上の池 |
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下の池からの用水路 |
急な坂道の管理道 |
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「岡山県の名勝誌」 (大正4年10月1日刊) 大瀧:和気郡藤野村大字吉田に在り。源を下十谷池に発す。高さ3丈6尺、幅3丈、飛泉落下して奇観をなす。その側に奇巌怪石多く、松樹蒼々として岩石の間に生ず。この滝は津田屋敷の西北に当たり、屋敷地よりしてこれを望む最も好適の所にあり。蓋し、昔、津田重次郎(永忠の幼名:筆者注)の屋敷を相せるや。この滝の勝を利用して朝夕の観望に供する所ありしならんと称す。 *化政期の和気郡手鑑(和気郡史)に「奴久谷は高102石余・又高37石余、田6町余・畑4町余、53軒・198人」との記載があり、また「備陽記」には「奴久谷32軒・215人」との記載がある。 |