三角点名 | ー | 山名 | 滝尾山 | ||
所在地 | 赤磐市(赤坂)西軽部字大久保 (「大久保城跡」) 〃 町苅田字陰地 (「陰地城跡」) |
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コード | TR ー | 標高 | 152m | ||
概 況 | 【相口山】の探査を終えて尾根を西に進み、約10分で滝尾山中央峰、「赤坂町史」では「大久保城跡」とあり、それらしき痕跡を探すも見つからず、山頂中央の木に赤いテープを付けて記念撮影。 やや残念な思いをしながら尾根を南に進み、西に【真光寺山】の山並みを見て緩やかな坂を下り、登り返すと南峰、10m×10mほどの山頂の真ん中に石碑が建っている。石碑には正面に「八大龍王宮」、東面に「寛政6年(1794)甲寅」、西面に「6月14日」と刻まれており、手水鉢には世話人の名前が刻まれていた。(中央峰から約10分) 約20分かけて石碑の周りを整理し、カメラに収める。「赤坂町史」では「陰地城跡」と記されており、痕跡を探すもそれらしきものは見つからず、諦めて南に下る。 ここからは参拝路で道もよい筈と期待していたが、そうは問屋が卸さず、倒木や身の丈ほどに伸びたササに行く手を阻まれ、可なり難渋する。約20分かけて墓地の上端に出てやっと一息入れ、そこから凡そ5分で停車場所に戻り、本日の予定終了。(南峰から約45分) 県道を通って南に進み、大苅田集落から北に見える山並み(本日の行程)を撮影した後、山名と城跡を確認するため、赤磐市役所赤坂支所及び赤磐市山陽郷土歴史館を訪れる。(H27.02.03) <山名と城跡の件> 山陽新聞社発行の「岡山県万能地図」(2006.4.24初刊)には、【相口山】と思われる地点に「滝尾山156.7m」、滝尾山南峰と思われる地点に「高尾山城跡」の表記がある。しかし、国土地理院の地図には、南峰に「滝尾山」・「152m」の表記があるのみ。果たして「高尾山城」はどこにあったのか、それを確認するため赤坂支所を訪ねたところ、専門家不在とのことで山陽郷土歴史館を紹介された。係員に来意を告げたところ、2階に掲示されている城跡図を案内され、それによると【滝尾山】にあったのは「大久保城」で、「高尾山城」は東隣の山(山名不詳)にあったことが分かった。 なお、岡山県教委の「岡山県遺跡地図」によると、大久保城は、『室町時代、軽部の標高154mの丘陵頂部に建てられ、城主は額田与次右衛門と伝える』と記されている。 また、高尾山城については、『室町時代、大苅田の標高120mの丘陵頂部に建てられ、城主は苅田四郎左衛門と伝える」と記されている。(所在地はいずれも「山陽郷土歴史館」の表示のとおり) 一方、「赤坂町史」(昭和59.1.31刊)によると、滝尾山の所在地を「町苅田字陰地1141」と記し、「西北にある真光寺山と砂川を挟んで狭い谷をつくり、相対峙している標高160m位の山」とし、「山上は眺望よく頂上には八大龍王(石碑)が立てられている」と記している。そして「おんじ城跡」については、「不詳(滝尾山頂、龍王宮のところという)」と記し、「龍王様」の項で、「町苅田字陰地1326の1、滝尾山の尾根上で俗に陰地山という山上に「八大龍王宮」「寛政8年6月14日」と刻まれた石碑に龍王様が祀られている。陰地城のあったところと云われる」との記載がある。 また、「大久保城」については、所在地を「西軽部字大久保85(山上)、額田与次右衛門が居城したという」と記載されている。 |
尾根を西に向かう |
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尾根を南に向かう |
西に【真光寺山】が見える |
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滝尾山南峰(陰地城跡」)*クリックで大 |
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尾根筋を南に下る |
倒木等に進路を阻まれる |
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ササも伸びて… |
墓地上端に出て安心する |
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大苅田から見た山容(中央奥:滝尾山南峰・右奥:相口山) |