「巷説・岡山開化史」 岡 長平著 昭和52年11月刊
旗振り速報(略)
次は旗相場だ。岡山の米は堂島相場に左右されとったから、その相場を誰より早く探知することが勝負のカギになった。
殿様時代には大阪の柳家与四郎という飛脚屋が堂島の堺屋庄次郎という問屋から堂島相場を昼夜兼行の速達で岡山藩庁に届けとったもんだ。それでもザッと二日、雨でも降れば三日かかってた。明治になると、無論その急報は廃止になった。そこで各地取引所が銭を出し合わせてリレー式に速報を始めたのである。自由な世の中になったから抜駆けをするもんも出てくれば、買収して誤報を送らすなどの詐欺行為も出るなどして、いつも取引所に騒動の種をまいて、速報が会所を弱らしとった。
明治十九年四月十八日付で、滝本町の小林文吉が旗相場の許可を得て、それが正式に会所で発表されることになった。
これは、明治十年の西南戦争に手旗信号が大きな戦果を挙げたのにヒントを得て、これを始めたように書かれておるが、それよりも三百年も前の戦国時代には、夜は烽火、昼は望遠鏡による伝令通報が行われていたことは、よく戦書で見られる。徳川時代になっても、「伊賀越道中双六」の芝居に双眼鏡が出てくるところを見ると、内密では可成り活用されてたような気がする。
堂島浜を始めた淀屋辰五郎が伝書鳩を使って大儲けをしたというから、旗振りなんか、ヘッチャラだったかもしれん。
堂島市場の高い屋上から、白い四尺の角旗を、右回りが十位、左回りが一位で、その時にできた相場を振って知らすのを、こんど万国博のできる千里山で望遠鏡で受ける。それを直ぐ旗を振って神戸の六甲山に知らすと、これを姫路の奥の書写山が望遠鏡で受けて、また直ぐ旗を振る。更に三石の大平鉱山のところの、今は旗振り台山という地名が残っている、あそこで受け渡すんだ。これは熊山で中継してた。だから熊山に「旗ガ峯」という所がある。それを、操山の頂上でキャッチして、岡山の操山水源地の少し北手の旗振り台という所で知らすのを、船着町(現:京橋町)の会所の二階でつかまえる。旗振り台の相場は都窪郡庄の日差山で受けつがれ、それを天文台のある遥照山から、笠岡市城見の皿山に出て、これが福山、尾道を経由して下関まで伝送されたのである。
こうは聞かされたが、明治初年ごろの望遠鏡が、そう遠方まで見えたか…、これ問題だ。
もう一つ納得できんのは、堂島から岡山まで三、四十分で相場が来た…、これだ。雨風の日には電報だったが、旗の方が早かったと云うんだ。だから、明治三十二年に米穀取引所が駅前に移転するまで、電報は高くつくから、なるべく使わんことにして、旗ばかりに頼っとった。
旗の欠点は、どこからでも盗まれることだった。だから、毎日、親展書で回数や振り方なんかを知らして来てたので、割合に被害はなかったそうじゃ。
(参考)
① 岡山で電報の取り扱いが始まったのは明治6年
② 岡山での私設電話敷設第一号は明治24年 材木問屋 片山儀太郎