三角点名  ー 山名  宮地山(宮路山)
所在地  岡山市北区足守          *近水園では「御殿山」という
コード  TR ー      標高  166m
概 況  鍛冶山】の探査を終えて次の目的地・旧足守藩侍屋敷に向かう。
 観光駐車場に車を停め、足守地域センターで宮地山の登り口を教えてもらい、近水園吟風閣の西北から山に取り付く。下草の刈られた斜面を5分ほど登ると石組みに出合うが城との関係は不明。急な斜面を木に掴まりながら頑張って鉄塔364(標高約90m)に辿りつく。鉄塔の奥には1mを超すササが茂っており、それを掻き分けて林に入る。尾根筋は緩やかな傾斜で比較的に歩き易く、ひたすら西に向かう。堀切らしきところにはササが茂っており迂回して再び尾根筋を登って行く。凡そ20分で東峰の頂上(最高点)。山頂には祠の屋根瓦の破片が散在しており、寄せ集めてカメラに収める。
 東峰から50mほど西進した地点にも壊れた瓦の破片があり、更に50ほど進むと西峰の頂上。フラットな山頂(15m×10m)の西奥には陶器(摺鉢?)の破片、北端には祠の屋根瓦の破片が埋まっていた。果たして何時ごろ製作・設置されたのか不明だが、興味ある代物であり、後日の研究成果を待ちたい。(往路:約40分)
 山頂からの展望はイマイチであるが、それでも樹間からは南〜西の集落や北東の山並みが見える。折角の歴史遺産でもあり、展望が良ければもっと多くの人が訪れるのでは…との思いがした。
 小休止した後、往路を引き返し、鉄塔364からは鉄塔巡視路を下る。巡視路は落ち葉で滑りやすいが、吟風閣ルートに比べるとはるかに歩き易く、凡そ5分で陣屋跡(南西角)に無事下山した。(復路:約30分)(H27.01.13)
 *下山後、地元の歴史研究家お二人から、足守藩の歴史や文化遺産等についてお話を伺うと共に貴重な資料を見せて頂いて大感激、トテモ充実した一日でした。
 <宮地山城> 「備中誌」(明治36.4.15初版)要約
 加陽山の西にある最も高い山を宮治山と云い、宮磁山とも宮地山とも書く。
 天正9年(1581)小早川隆景が下知して乃美小将四郎元信・舟木藤左衛門等400余人で城に籠り、舟木は要害に陣取って羽柴筑前守秀吉の兵を防ぐべく構えた。明けて天正10年(1582)3月、秀吉が鍛冶山(鍛冶屋山)に入城し、宮地山城を攻撃するため芸州勢の通路を絶ち、一時に攻落させようと包囲するが城中も予期していたことで櫓・狭間から弓・鉄砲を放って防戦する。秀吉は、この城は時間をかければ落城させることはできるが一気に攻撃すると多数の兵士が損亡すると思い、宇喜多の家来の信原内蔵允を使って和談の手配りをし、舟木藤左衛門に密談して乃美四郎を納得させ、城を宇喜多に渡して元信を備後国に引き取り、舟木は降参した。
 

 <山名表記の件>
 国土地理院の地図には山名が記載されていないが、岡山県教委発行の「岡山県遺跡地図」には「宮路山城跡」、「備中誌」(明治36年初版)には「宮治山」「宮地山」「宮磁山」との記載がある。
 しかし、元禄14年(1701)に描かれた「備中国絵図」には「宮地山」と記載されているのでこれに従うこととする。



冠山城跡(下足守)の西から見た【宮地山】(左)、【鍛冶山】(右)

足守観光駐車場から見た宮地山

近水園吟風閣の西から取り付く

山腹で見つけた石組み

鉄塔364が目印

尾根筋を西進する

傾斜は緩やかで歩き易い
東峰にある祠跡 *クリックで大
 
西峰の頂上(10m×15m)

西峰頂上にある陶器の破片 *クリックで大
 
西峰頂上にある祠跡 *クリックで大
 
西峰頂上から南の展望
   
西峰頂上から西北の展望
≪鉄塔364から巡視路を下る≫     
 
鉄塔364から東【龍王山】の展望
   
鉄塔巡視路は滑りやすいので要注意
 
鉄塔巡視路の分岐点
   
巡視路の脇にある石灯篭
 
取り付き口から見た巡視路(西に延びている)
   
鉄塔巡視路の取り付き口(陣屋跡の南西角)